一才のとき両親が離婚、養子先の三番目の義母に育てられる
奥山さんは、一九四七年に武生市の田中という家に生まれました。一才のとき、両親が離婚したため奥山家の養子になり、田中から今の奥山になりました。
三才で養母を亡くし、六才で養父を事故で亡くしました。そのため田中家の祖父が奥山さんを引き取りにきましたが、そのとき「何もしてやれんが、ぼろを着せてでも育ててみます」といってくれた養父の後妻である三番目の義母に育てられました。
一生懸命働いても貧しい人がいるのはなぜか、と社会に疑問
家は、田圃が四反、畑も一反しかなく現金収入が一銭もない状況で大変貧しく、盆暮れになると借金取りが来るため、〃食う米〃を渡して返済していたそうです。
また、学校では秋には遠足がありましたが、お弁当のおにぎりの海苔(のり)すらないために、さみしい思いをし、修学旅行の旅費四千円がないために、自分で親戚中を頼んでまわったそうです。
奥山さんは、小学生のころは、学校から帰ると兄弟の世話や義母を手伝い畑仕事をし、中学生になると、夏休みには工場やペンキ塗りのアルバイトをして生活を助けていました。
その頃から、豊かな人がいる一方で、一生懸命働いても貧しい人がいるのはなぜか、と社会に疑問を持つようになりました。
国民が大事にされる社会へ、日本共産党に入党
中学校を卒業して、福鉄バスに入社し、敦賀で働くようになりました。そして、青年の要求を実現するために社会に働きかけがんばっている日本民主青年同盟(以下、民青)と出合いました。
「国民が大事にされる社会へと政治を変えなければ、苦しい暮らしは変わらない」と教えられ、民青に加盟し、そこで哲学や経済学を学び理論を深め、日本共産党に入党しました。
住民に奉仕をする気持ちで、敦賀市議を20年務め、前回県議に初当選。今回再選めざす
一九七八年に三二才で市会議委員に立候補します。奥山さんは「妻は、富山県出身で親戚もなく、町内でも知り合いは少なく当選する見込みはありませんでした」と、当時のことをふりかえります。しかし、みなさまのご支持をいただき当選。以来五期二十年にわたり「住民の暮らしを守り、住民に奉仕をする気持ちで」市民の立場にたつ市政をめざしがんばってきました。
そして前回、敦賀市民の立場から県政にハッキリとものをいう県議がいないことを痛感。県議選に打って出て、みなさんのご支援で見事に当選を勝ちとりました。
この四年間、奥山さんはゴミ持込をストップさせる、ムダな税金の使い方を改めさせるなど、敦賀市民になくてはならない県議として頑張ってきました。これまでの市会議員としての経験を生かし、さらに敦賀市民に役立つ日本共産党の県会議員として連日奮闘されています。みなさんの大きなご支援を心からお願いいたします。
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